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​庵 彦一郎

旧水島彦一郎邸 「庵(いおり)彦一郎」 築127年の庄屋屋敷 明治31年(1898)建築

 彦一郎氏の屋敷は、明治29年(1896)の大災害によって伊佐津川の堤防が決壊し被害を受けたため、堤防沿いからこの地に移り、明治30年から31年にかけて再建された。(『舞鶴の民家』舞鶴市平成15年(2003)刊に掲載)  2023年まで彦一郎氏の子孫が居住されていたが、高齢のため屋敷を手放された。文化財である本邸を次世代に引き継ぎたいと玉山氏(京都在住)が購入。  管理を委任された水嶋らが「庵彦一郎」と名付け地域の人々が集える場として整備し、みんなあの居場所として活用している。

水島家の言い伝え・・・「死を賭して民衆のために働く」

 水島家は、元は金加姓で数百年前からこの地に根ざし、郷士として農業を営みながら庄屋を務めてきた旧家である。伝承によると江戸時代、寛文年間(1661〜73)、藩主京極氏の過酷な年貢取立てや使役に対し伊佐津の庄屋金加孫左衛門が代表して直訴。捕えられて打首、田畑屋敷は没収、妻子は国外追い払いとなった。しかし、京極氏は但馬へ国替えとなり牧野氏が藩主となり(寛文9年)、伊佐津村のみ明治に至るまでの200年間「諸役御免」となった。  村民はその義侠をたたえ三柱神社内の稲荷社に祀った。家族は若狭に逃れていたが、田辺に帰郷し、水嶋惣左衛門と改名して家を再興、代々惣右衛門を名乗った。その後、彦一郎氏の選挙出馬に際し「水島」と改姓した。

水島彦一郎(みずしま ひこいちろう)

(経歴) 中筋高等小学校、兵庫県立篠山中学校(中退)、同志社中学校、早稲田大学政治経済学科卒業。新聞記者を経て実業界へ進む。父の逝去に伴い帰郷し家業を継ぎ中筋村村会議員に、29歳で加佐郡郡会議員となる。その後、大阪へ出、第一次世界大戦前の好況に乗り実業界で活躍した。  大戦後に帰郷し(大正7年(1918))、37歳で府会議員に最高点で当選し議長も務めた。府会で活動する傍ら41歳で舞鶴町長に就任し、退任するまで4選された。  昭和3年(1928)、第1回普通選挙にて衆議院議員に初当選。立憲政友会の院内総務・政調副会長として活躍。3期(1928〜1936年)務めた。農村出身の議員として、世界恐慌と冷害による農村の疲弊に心を砕いた。1938年(昭和13)舞鶴町は舞鶴市(旧)となり(市長は弟の川北正太郎)、彦一郎が昭和17年(1942)より東西合併まで市長を務めた。昭和18年(1943)、合併した舞鶴市の初代議長に就任。戦時中、非戦論を唱えたこともあったが、GHQによる公職追放により郷里で晩年を送った。 (舞鶴の基礎を) 同郷の有本國蔵氏に働きかけ「有本積善社」を設立し、國蔵氏からの多額の寄付を原資に図書館や公会堂の建設、教育施設の充実など旧舞鶴の中心地形成を果たした。【有本國蔵翁像寿像記(西総合会館横)】  また、「町の繁栄は港の発展にある」と舞鶴港の修築に私財も投じて実現に努力した。国内外の政情の変化による苦難を超えて昭和7年(1932)年の完成をみた。竣工とともに西公会堂前に築港記念碑が建てられた。(現在島崎公園内)  衆議院議員時代には、世界を見て回り、アジア・アフリの窮状、白人の植民地支配や搾取の様子を肌で感じ、議員を退いた後、『有色民族の更生』を著作している。また、「舞鶴に中学校を」との想いから舞鶴中学校(現・西舞鶴高校)の設立に尽力。中筋尋常小学校の校歌も作詞(現在も中筋小学校校歌として歌われている)、教育文化の振興にも寄与した。自分の手で市史を編纂しようと資料を集めたり、雅号を猶興と称して詩歌・書画鑑賞を楽しんだり、万葉集に心を寄せたりした。長男鋼太郎は、昭和19年(1944)インパール作戦にてビルマで戦没。

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